共通教育科目「基礎教養1」の「世界の思想」2007年度1学期水曜4時限

「認識するとはどういうことか?」

                 第12回講義  (2007.07.11)               

  

 これまでの復習

 

第1回 §1 知にはどんなものがあるのか?


第2回 §2 究極的に根拠付けられた知は存在するのか?

第3,4回 §3 規約主義の問題

第5回 §4 知とは何か、ゲティア問題

第6回 §5 感覚は信念を正当化するか? ――非信念的内在主義――

第7回 §6 知識の外在主義

第8回 §7 基礎付け主義と整合主義

第9回 §8 心身問題 Qualiaの問題

第10回 §8 心身問題 志向性の問題

第11回 §9 知識の社会性 認識の社会的分業 

 

第1回 §1 知にはどんなものがあるのか?

 

命題知(know-that)、技能知(know-how)、再認知(know-what)、クオリア(know-what-it-is-like)

 

第2回 §2 究極的に根拠付けられた知は存在するのか?

ミュンヒハウゼンのトリレンマ(Muenchhausener Trilemma

→基礎付け主義は不可能である

これによる帰結

  懐疑主義

  可謬主義(決断主義、規約主義)

 

では日常信頼している知をどう正当化するか?

  論理、

感覚「これは黄色だ」、

自己意識「私は存在する」

 

第3,4回 §3 規約主義の問題

 

公理が設定できたとしてもなお残る論理学のもう一つの問題

=規約主義のパラドクス 

→論理を支えるのは、技能知(know-how)かもしれない。

 

他に、ゲーデル不完全性定理の問題、タルスキー真理論の問題。

 

第5回 §4 知とは何か、ゲティア問題

 知の古典的定義

 ゲティアによる反例

 

第6回 §5 感覚は信念を正当化するか? ――非信念的内在主義――

 感覚によって信念を正当化できるのか? 

 □ を見て、「これは四角だ」といえるのはなぜか?

 この判断は、感覚だけから正当化されているのではない。

 →内在的整合主義へ

 →外在的基礎付け主義へ

 

第7回 §6 知識の外在主義

 知識の因果説(ゴールドマン)

 知識の因果説に対する反例:逸脱因果

逸脱因果の反事実的分析(ドレツキ)

 

第8回 §7 基礎付け主義と整合主義

 内在的基礎付け主義

 内在的整合主義

 外在的基礎付け主義

 外在的整合主義(?)

 

第9回 §8 心身問題 Qualiaの問題

 クオリアが脳状態と同一であることを証明することは不可能

 

第10回 §8 心身問題 志向性の問題

 規則に従う合理的な思考の過程と因果法則に従う脳過程は同一でありうるか?

 

第11回 §9 知識の社会性 認識の社会的分業 

 ほとんどの知識は伝聞知識に基づいている。

 →ほとんどの知識は社会的分業によって成立している。

 →この場合の知識の持ち主はだれか?

 →この場合の知識の正当化はどうなるのか?

 

 

          今後の予定

第12回 §10 知識の社会性 共有知

第13回 §11 知識の社会性 知識の個人主義を超えて

第14回 Final Test

 

 

         

第12回 §10 知識の社会性 共有知(common knowledge

 

1、共通知識

(1)「共通知識」の定義

次の二つが成立している場合を、pはaさんとbさんの「共通知識」であると言うことにしたい。

(1)aはpを知っている。

(2)bはpを知っている。

例えば、aもbも、p「ブータンの首都がティンプーである」を知っている場合である。この場合に、さらに、aがそのことを知っていることを、bが知っていることもあれば、知っていないこともある。どちらであっても(1)と(2)が成り立っていれば、「共通知識」であると呼ぶことにしよう。

(2)共通知識の反復可能性

  (3)aは、(1)(2)を知っている。

  (4)bは、(1)(2)を知っている。

このときには、(1)(2)、つまり「pがaとbの共通知識であること」が、aとbの共通知識である。

 これは、同様に何度も反復することがありえる。

 

2、共有知

(1)共有知の事例

 

AさんとBさんがテーブルを挟んで向かい合って座っており、

その真ん中にキャンドルがある。

 

(1)Aさんは、「キャンドルがある」と知っている。

(2)Bさんは、「キャンドルがある」と知っている。

(3)Aさんは、(2)を知っている。

(4)Bさんは、(1)を知っている。

(5)Aさんは、(4)を知っている。

(6)Bさんは、(3)を知っている。

  以下同様につづく。

 

AさんとBさんが仕事のはなしをしていて、終わらないので、明日のまた同じ時間に同じ場所で会いましょうと約束する。

(1)Aさんは、「約束した」と知っている。

(2)Bさんは、「約束した」と知っている。

(3)Aさんは、(2)を知っている。

(4)Bさんは、(1)を知っている。

(5)Aさんは、(4)を知っている。

(6)Bさんは、(3)を知っている。

  以下同様につづく。

 

(2)共有知の従来の定義

(石崎雅人・伝康晴著『言語と計算3 談話と対話』東京大学出版会、pp.179-180

 

A、反復的定義

MBabP=BaBbBa・・・P&BBBb・・・P

(Schifer,1972, Cohen & Levesque,1990c)

 

記号の説明

“BaP”=「aさんが命題Pを信じている」。

MBabP”=「aさんとbさんが命題Pを相互に信じている」

 

(「相互に信じている」は、私がここで説明している「共有知」と同じもの。

「共有知」は「相互知識」「相互信念」「共有信念」「相互に顕在的」などの言葉で呼ばれることがある。)

 

、反射的定義 (Harmann,1977)

MBabPは、以下を満たすような命題Qである。

Q=BaP&BaQ&BbP&BbQ

 

C、共有基礎(shared basis)定義(Lewins, 1969Clark,1996

MabPが成り立つのは、以下をみたす基礎Cが存在するとき、かつ、そのときに限る。

 1.BaC&Bb

 2、Cによって、aとbに1が示される。

 3、Cによって、aとbにPが示される。

 

(3)共有知が必要だろうか。

共通知識のいくつかの階層があれば十分ではないだろうか。

 例えば、青信号のときに直進するためには、3階程度の共通知識があればよいのではないか。

 

(4)共通知識が成立していることをどのようにして知りうるのか?

 「共通知識」が成立しているといえるためには、次の問題に答えなくてはならない。上の例で説明しよう。

(1)aはpを知っている。

(1)bはpを知っている。

この二つが成り立つとき、「pはaとbの共通知識である」と言うことにした。では、この二つが成り立つことを、たとえばaさんは、どのようにして知り得るのだろうか。つまり、aは、(2)bがpを知っている、ということをどのようにして知り得るのだろうか。

例えば、pが「ブータンの首都はティンプーである」だとしよう。aがbに「ブータンの首都を知っていますか」と尋ねて、bが「はい、ティンプーです」と答えたならば、aはbがpを知っていることを知ることができる。つまり、この段階で、aはpがaとbの共通知識であることを知っている。

しかし、厳密に考えるのならば、aは、「ブータンの首都はティンプーである」という命題をbがaと同じ意味で理解していることを知る必要がある。では、このことをaはどうやって知りうるのだろうか。この命題を同じ内容で理解していることは、日常生活では、自明なことと見なされているだろう。むしろ、この命題の異なる理解を想像することの方が困難であるかもしれない。

 

しかし、知はあくまでも個人の知であるという立場に立つならば、aが<bが「ブータンの首都はティンプーである」と知っていること>を知っているとき、<bが「ブータンの首都はティンプーである」と知っていること>は、aの知であり、この中の「ブータンの首都はティンプーである」もまたbの知に関するaの知である。bの知そのものをaは知ることが出来ない。

 

 

4、認識論的独我論と存在論的複数自我論は両立不可能である

(1)科学的に考えて、認識論的独我論と存在論的複数自我論は両立可能か?

現在の科学は、他者との対話においては私の脳が考え発話している、と考える。目や耳などの感覚器官をとおして、相手の声や動きの刺激をうけとり、それを脳で処理して知覚し、それを脳で言葉として解釈して、意味を理解し、・・・。このような説明において、知はあくまでも個別の脳の中に存在するものであり、一つの知を他者と共有するということは、不可能である。

ところで、科学者Sがこのように説明するとき、この説明そのものもまた、彼の脳のなかの知であることを彼は認めるだろう。しかし同時に、Sは上の説明を客観的事実だと考えている。つまり、Sは、p<Sが他者Aと対話していることは客観的事実であるが、それについてのSの知はSの脳の中の出来事である。そして、このSの脳の中の出来事は、Sが他者Aと対話しているのと同様の客観的事実である>と考えている。しかし、このpという知もまたSの脳の中の出来事である。これは、以下同様に繰り返されるだろう。

「人間のあらゆる意識や知は、脳の中の作用あるいはその随伴現象としてのみ成立している」と考えるとき、この考え自体もまた、このように考える者の脳の中に成立している。科学者が、他の人もまた自分と同じように脳の中で考えていると考えるとき、彼はそれをどのように証明できるのだろうか。彼が証明を思いついたとしても、その証明は彼の脳の中にある。彼は、脳から外に出てゆけない。

 少し話を戻すと、科学者は、すべての意識や知が脳の作用ないし作用の随伴現象であるということを、どのようにして証明できるのだろうか。彼が、近未来の磁気共鳴装置をもちいて、被験者の思考(の報告)と脳の作用の対応関係を反復実証可能な形で確定できたとしよう。被験者が、「人間のあらゆる意識や知は、脳の中の作用あるいはその随伴随現象として成立している」と考えたときに、脳がどのように作用するか、を科学者は予測することができ、またその予測が検証されたとしよう。脳学者のテーゼが正しいとすると、彼のこの検証作業もまた、彼の脳の中にあるに過ぎないことになる。脳科学においては、おそらくそのような証明で十分だろう。しかし、哲学としては、テーゼ「人間のあらゆる意識や知は、脳の中の作用あるいはその付随現象としてのみ成立している」のその証明は無効であるように思われる。もしテーゼの証明が原理的に不可能であるとしても、テーゼが真である可能性は残る。その可能性をさらに立ち入って批判するために、現象学の立場について考えてみよう。

 

(2)現象学への批判

フッサールが言うように、世界や対象や他者を構成的に総合する超越論的自我が複数存在しているのだと仮定してみよう。この立場をかりに、「超越論的複数自我論」と呼ぶことにしよう。

しかし、他者が超越論的自我であるとしても、それは私にとってそのように構成されるに過ぎない。つまり<超越論的自我が複数存在している>ということもまた、超越論的自我である私による構成である。従って、この後者の超越論的自我こそが、実在する超越論的自我である。他者達である超越論的複数自我は、私が構成したものにすぎないと言う立場を「超越論的独我論」(8)と呼ぶことにしよう。フッサールは、彼の立場が「超越論的独我論」であるという批判に反論して、(彼の用語ではないが)「超越論的複数自我論」の立場をとろうとしている。

しかし、フッサールの立場からするならば、これらの複数の超越論的自我が存在することもまた、超越論的自我によって構成された事実に過ぎないはずである。そうするとやはり「超越論的独我論」になってしまうのではないだろうか。もちろん、更にこのような超越論自我が複数存在すると想定することは可能である。そうすると、同様のことが無限に反復することになる。この無限の反復は、超越論的複数自我論と超越論的独我論の間を揺れ続けることを意味するだろう。

この二つの立場の間を揺れ続けることは、生き方としてはありうる態度だろう。しかし、それは理論的な立場としては成立しないだろう。なぜなら、もし私がこの揺れ続けることを一つの立場として採用するとき、その立場を採用するのは私であり、その立場はまたしても私の想定に過ぎず、メタレベルで独我論に戻ってしまうからである。ここで私が独我論を取らないとするならば、私は私の外部に、私と同様に動揺している他者を想定することになるだろう。しかし、またしてもこの想定が、私の想定に過ぎないことを自覚することになる。こうしてまた揺れ続けることになる。つまり、揺れ続けることは一つの理論的な立場にはなりえないのである。

以上から、我々は、認識論的独我論と存在論的複数自我論は両立し得ないと結論できるだろう。